ダーク・デイズ
ニューヨークはマンハッタン。列車が通る地下トンネルには、地上で行き場を失った者たちが暮らす魔窟がある。この暗闇の中で、辛い過去に葛藤しながらも、人々は光を探している。ある日突然、鉄道会社による強制退去が始まった——。この作品は、トンネルに住むホームレス自らによって制作された。
ニューヨークのトンネル住人と地下に潜る
1990年代、ニューヨークのあるモデルは、煌びやかな生活に背を向け、トンネルに住むホームレスたちと行動を共にした。それはのちに、彼らの人生を素晴らしい映画へと昇華させることとなった。マーク・シンガーがその物語を語る。
「20歳のころはハンサムな若者だった」とマーク・シンガーはイタズラっぽく笑う。現在もハンサムな風貌を残す彼は今、ソーホーのバーに座って、ニューヨークでモデルとして働き優雅な生活を送っていた1990年代初頭に思いを馳せている。ロンドンで育った彼は、GCSEを修了することなく学校を辞め、マイアミに移り住んだ。ガールフレンドの勧めでモデル業を始めるとすぐに、ニューヨークへと移った。「大都会でパーティに明け暮れる若者だった。煌びやかな雰囲気が好きで、お金もたくさん稼いだ」
唯一の問題は、モデル業だった。「大嫌いだった。とても表面的で。 自分の写真集を持って歩き回った。何百ものキャスティングに時間を費やし、結局、重要なのは自分がどう見えるかだけ。いい生き方とは言えないよ」
シンガーはマンハッタンのアルファベット・シティ地区のロフトに住居を構えた。「プロジェクト住宅にはたくさんの移民が住んでいて、ドラッグが溢れていた。かなり危険なエリアもあった。Aアベニューでタクシーに乗るのは不可能だった。私が住み始めたのは、トンプキンス・スクエア・パークで暴動が起きてすぐ後のこと。警察が軍隊のように押し寄せてテント生活者を一掃してからそう時間が経っていない時だった。ドラッグ中毒者やホームレスの連中はみんな、路上や、周辺のスクワット、廃屋に移動していった」
「トンネルという場所には多くの噂がある」とシンガーも同意する。「ニューヨーカーたちは忠告した。『奴らは人喰いだ。ネズミを食べて生活してる。お前も殺されるぞ 』と。でも、私は21歳で、それが私の好みにぴったりだった。トンネルが素晴らしい場所に思えた。ホームレスになりたくてたまならかったんだ」しかしシンガーが地下に降り、ミッドタウンのペン駅と、西側のハーレムを結ぶ地下鉄の廃線エリアに到達した時、そこには無法地帯とは言い難い地下都市が広がっていた。「路上での生活はタフだ。雨が降れば濡れるし、持ち運べるだけの荷物しかない。でもトンネル内では、自分で家を建てることができるんだ」
その家々は、金属くずやプラスチック、ゴミ捨て場から拾ってきた家具などを使って建てられた粗末なものだった。住人の多くは男性で、暴力を振るう親から逃げてきた者、離婚した者、コカイン中毒者など様々。悲しみと苦悩が彼らを付きまとっていた。 50代の女性ディーは、アパートの火事で2人の子供を亡くし、暗闇に引きこもった。ラルフは、自分が服役中に5歳の娘がレイプされ、体を切断されたという事実に苦しめられていた。ネズミや悪臭といった劣悪な環境にありながら、彼らは新たな自分の存在を見出していった—何十年という年月をかけて。
「私は窓辺に座って彼らを眺めながら、ストリート生活への憧れを募らせていった。彼らと話をしたり、一緒に出かけてみたり、時にはストリートに泊まったりするようになった。その中でニューヨークのトンネルの話をよく耳にした。そこは、他の多くの都市と同様、『モグラ人間』が住む異臭の漂うネクロポリス、地獄として長い間考えられてきた」
シンガーは最初、このトンネルを薄気味悪く感じた。「監視されているような気がした。目が慣れるまで時間がかかる。全く人気のない場所もある。30軒ほどの家が集まっていて、その後、何もない場所が続く。そのあたりはとても暗く、空気が濃く、重くなる。尾行されているような感覚になる」彼は最初、住人に疑いの目で見られていた。「僕を警官だと思った人もいた。しばらくすると、僕が狂っているんじゃないかと。わざわざこんな底辺まで来る奴がどこにいるんだ!ってね」
若くて落ち着きのないアメリカ人は、冒険や異質な匂いを求めて、しばしば旅に出たり、貨物列車を乗り継いだりしてきた。しかし、シンガーの旅は、水平方向ではなく垂直方向に進み、やがて別世界を見つけるということではなく、ニューヨークの地上と地下のつながりを探るということになった。「黒人、白人、中国人、ラテン系、老人、若者、ドラッグ・ユーザーからシラフまで、みんなここにいる。人が区分けされていないということを除いては、地上の世界と全く同じ。家出したりドラッグをやっていたり、同じような境遇だとつるむようになるのさ」
日中、トンネルの住人の多くはマンハッタンの街を歩き回り、食料を調達したり、ゲイポルノ雑誌など転売できそうなものを漁ったりする。夜は、トンネルに降りてホットプレートで食事を作り、ペットと遊び、拝借してきた電気で中古のテレビを見る。
その頃、シンガーは自分でもシェルターを作り、追放された人々の家族の一員となっていた。「トンネルに入る前は、ホームレスの人たちをひとくくりにして、みんな麻薬浸りで絶望しているのだと思っていた。でも、友達がたくさんできて、みんなに可能性を感じるようになった。ある日、焚き火を囲んでみんなで話をしていた時、ある男とネズミの話で盛り上がった。みんな大爆笑だった。そのとき誰かがが、『自分たちを題材にした映画が作られるべきだ』と言ったんだ。そこで私も、『その通りだ!映画を作ってそれを売って、そのお金で皆をトンネルから脱出させよう』と」
シンガーがそれまでカメラを持ったこともなかったという事実もさることながら、その結果生まれたドキュメンタリー映画『ダーク・デイズ』は、多くの点で驚異的である。しかし、シンガーは、この暗闇に住む住人たちを撮影する際、同情的な描写や覗き見的撮影を避けた。苦境にありながらも仲間意識と絞首台的ユーモアを持つ、強い心を持った楽観的な個人の集まりとして、住人を描いている。それだけでなく、DJシャドウによるムーディーなアンビエント・サウンドトラックは、作品内のヒップホップのジェスチャーと調和し、洞窟壁画さながらのスプレー缶グラフィティが広がるトンネルの壁と見事なハーモニーを奏でている。
『ダーク・デイズ』という作品は、多くの点で共同作業だったと言える。トンネルに住む人々はクルーとなった。ある者は照明やマイクを持ち、ある者はプロの経験を生かして電気を引き、ドリーショットのための新しいトラックを作った。この映画のパワーの多くは、モノクロで撮影されたことにある。その明暗による美しさが、ウディ・アレンの『マンハッタン』に対するプロレタリア的アンチテーゼとなっている。シンガーはその手法が「偶然だった」ことを認めている。「写真家の友人に映画を撮ると言ったら、『カラーでは撮るな』と言われた。『伝えたいことがはっきりしない。台無しになるぞ。その点、黒白はいい。クールだしな』と」
シンガーは、出資者候補からの申し出を断っていた。トンネルの友人への忠誠心からだ。「奴らは、18歳〜25歳のセックスとドラッグとロックンロール好きな観客をターゲットにしろと言うんだ」トンネルの住人達は、武装した市の職員に退去を強要された後、公営住宅に住み始めた。しかし、シンガー自身は一文無しで、編集室で寝泊まりすることを余儀なくされた。時には、撮影対象だった人達の部屋の床で寝泊まりすることもあった。「『タクシーや寿司の生活から、ゴミの中をあさるような人間になったのか』と笑われたものだ」
ついに2000年に公開された『ダーク・デイズ』は、サンダンス映画祭で3つの賞を受賞し、広く賞賛された。「不思議な時代だった」とシンガーは振り返る。「全国を旅して賞を集めていた一方で、毎晩、ビュッフェからできるだけ多くの食べ物を確保して、寝る場所を探し回っていた」シンガーは、トンネルの友人と今でも連絡を取り合っているが、その多くは亡くなってしまった。彼は軍の小隊に関する別の映画を撮り始めたが、完成することはなく、すべての映像を破棄してしまった。
たとえ『ダーク・デイズ』がシンガーの唯一の作品になったとしても、この作品は驚異的な成果であり、その執念、連帯、芸術的映像は勝利に値する。この作品が与える驚きと感動が衰えることは決してない。だが、ニューヨークのシェルターや路上で眠る男女の数が、大恐慌時代よりも増えている2014年には、特に核心をつく作品であると感じている。
シンガーが最後にこのトンネルを訪れたのは2011年。「それはとてもシュールな光景だった。アムトラックは空洞化していた。以前は絵や素晴らしいアートがあったのに、灰色に塗りつぶされていた。落書きもなく、ネズミもおらず、人が住んでいた形跡もない。非常に衛生的で、厳重に管理されていた」
シンガーは、このトンネルが人生において過ぎ去ったものだとしながらも、同時にこのトンネルには未来があると確信している。「グラフィティ・ライターを永遠に排除することはできない。ここは次の世代のための白紙のキャンバスなんだ」