
イラン式に離婚するなら?
夫との離婚を実現しようと法廷で闘うイランの女性たちを追った。ジャミラは夫から暴力を受けており、16歳のジーバは38歳の夫との離婚を試みる。マリヤムは娘の親権をめぐって壮絶な闘いを繰り広げる。イランの不条理な司法システムや、夫・家族からの圧力が彼女たちを追い詰める。
『イラン式に離婚するなら?』は、監督キム・ロンジノットと人類学者であり女性問題研究家のジーバ・ミル=ホセイニ女史の制作によるドキュメンタリー映画だ。テヘランにある裁判所の小さな法廷で裁判官が淡々と離婚の申立てを裁く。離婚を望む女性たちは裁判を有利に運ぶため、あらゆる理由を並べ、主張し、愛嬌し、怒り、同情を乞い、忍耐や機知を駆使して訴えにやってくる。中心となる登場人物は4人の女性だ。マッシは性格の合わない夫と離婚したいと考え、16歳のジーバは38歳の夫とその家族に対して誇りをかけた闘いを挑む。夫に生活態度を改めさせようとあえて法廷に訴えたジャミラ。そして再婚したマリアムは、前夫から娘2人の親権を取り戻すために必死の訴えを起こす。
ジーバ・ミル=ホセイニ女史が語る『イラン式に離婚するなら?』
テヘランの家庭裁判所におけるイスラム法(シャリア)の現実について映画を撮るというアイデアは、1996年初頭に友人からドキュメンタリー映画監督のキム・ロンジノットを紹介された時に生まれた。ロンジノットがエジプトの女性たちについて撮った映画『Hidden Faces』(1991)を観て気に入っていたし、いつかイランで映画を作りたいと考えていたことも聞いていた。ロンジノットは、時事問題を扱うTVドキュメンタリーによくあるイランのイメージと、イラン国内のフィクション映画作品に描かれるイメージとの対比に興味を持っていた。前者はイランを狂信的な国として描き、後者は穏やかな文化と人々を詩的に伝える作品だった。ロンジノットは「このドキュメンタリーとフィクションが同じ国の話だとは思えない」という感想を持っていた。そこで、私はテヘランの家庭裁判所で行った1980年代の調査について話し、著書『婚姻裁判(Marriage on trial)』を渡した。
まず最初に、ロンジノットが英国のテレビ制作編集者に資金提供を申請し、私がイラン当局に取材と撮影の許可を申請することになった。その時初めて私は、イラン当局に撮影許可を交渉する困難だけでなく、自分自身とも対峙しなければならないという困難に直面することになると気が付いた。映画制作について初心者であり、表現に関する理論・方法論的な問題、人類学的な視点で物語を構成すること、そして私自身の倫理と職業上のジレンマもあった。この映画のテーマは現在イランで施行されているイスラム家族法の現実についてだ。必然的に登場人物の私生活をおおやけにさらすことになり、イスラム主義とフェミニストを二分する論争は避けられない。つまり、イスラム法における女性の立場という不可触な問題に取り組むということなのだ。
1996年3月、私たちはロンドンのイラン大使館へ企画書を提出し、ドキュメンタリー映画のためテヘランの裁判所での撮影許可を申請した。企画書はテーマの繊細さを理解した上で慎重に作成した。幅広い視聴者に届くような、女性とイスラム教についての一般的な固定観念に挑戦する映画を作ることを目的に挙げた。人々が感情的にも理知的にも共感できる、文化や社会の壁を越えた普遍的なテーマに取り組むこと。結婚、離婚、子供の運命を軸に映画を制作することはこのテーマを描く上で最適であることを主張した。
1996年10月、何の説明もなく私たちの申請は却下された。それでもロンジノットと私はこのプロジェクトを諦めず、イラン大使館へのロビー活動を続けて高官との面会のチャンスを掴み交渉を続けた。その年の12月、Channel 4 TVが自社番組のドキュメンタリー枠で長編映画のための資金提供を申し出てくれた。このことは私たちとって大きな励みとなった。
1997年1月中旬、私たちは直接イスラム指導省に申請の承認と協力を訴えるためテヘランへ向かった。ひとつには、ロンジノットにイランを目で見て場所の空気と文化を感じてもらいたいのもあった。イランでは、インディペンデント映画制作者、テレビ局、イスラム指導省、女性団体など様々な人と面会し、私たちのプロジェクトの意義を伝えた。彼らの多くはテーマを変えるべきだと言い、結婚式、女性議員、殉教者の母親など“道徳的に正しい”ことや“イランのポジティブなイメージ”を与える映画を望んでいた。明らかに、ロンジノットと私が取り組もうとしているテーマは撮影が難しいものだった。私たちは、家庭裁判所で撮影する夫婦間の争いを描く映画がどのようにポジティブなイメージを与えられるかについて話し合った。イランを題材にした大きなセンセーションとなる可能性を秘めた外国映画において、私たちが(視聴者に伝えたい)ポジティブだと感じる意味と、多くのネガティブな意見とをしっかりと見極める必要性を感じていた。
イメージと言葉は文化が異なれば違う感情を呼び起こす可能性がある。例えば、正義と自由のために犠牲を払うことを是とするシーア派の教えに基づいて戦争で子ども失うことをイスラム教への殉教だと語る母親は、西洋人の目には宗教的な熱狂や狂信とうつるネガティブな固定観念がある。一方でポジティブに捉えられる物事も、一方ではネガティブに捉えられる。偏見なく提示するには、複雑な社会背景と実状をそのまま視聴者に差し出して自分で判断してもらうしかない。好意的に受けとめる人もいれば、そうでない人もいるだろう。しかし、家庭であれ法廷であれ普通の女性が自立する様子を描き、その内情をしっかりと伝えることができれば、最終的にどんな映画よりもはるかにポジティブなイランの姿が現れるだろう。ネガティブな西洋の固定観念にも一石を投じることになる。
最終的にはイスラム指導省も納得してくれた。私たちはロンドンの大使館を通じて再度申請を行うように言われ、1か月以内に許可を得られることになった。同時にイスラム人権委員会の協力を得て、法廷の撮影についても法務省へ許可を申請した。当時、法務省の広報部がイランのテレビ局に依頼しテヘラン家庭裁判所で短編教育映画を撮影していたこともあり、こちらはそれほど問題なく進んだ。
私たちは一旦ロンドンに戻ったが、5月の大統領選挙までに、つまりこのプロジェクトを承認した高官が在任している間に撮影を始めようと考えていた。だが、数か月経っても正式な許可は下りなかった。結局、プロジェクトが動き出したのは1997年8月にハタミ大統領が就任し新政府が発足した後だった。その10月、私たちは再々度の申請書を提出。次いでテヘランへ飛び、新イスラム指導省にプロジェクトの説明と交渉を行った。改革派が指導者となった新政府は以前よりオープンな対応だった。改革派政府は国内の問題についての批判的な声も受け入れ、外部からの視線をそれほど恐れることもなかった。さらに手続きもスムーズに進行し、3週間後にはロンジノットと録音技術者のクリスティーン・フェルチェのビザも発給され、16mmカメラと音響機器の持ち込みが許可された。
イスラム指導省からの紹介状を手にし、私たちは法務省広報部の支援のもといくつかの司法施設を訪問した。テヘラン市内には16の裁判所が点在している。それぞれの裁判所にいくつかの法廷があり、住民からの訴訟を扱っている。裁判の内容は、テヘランの社会経済的境界に沿って北部の中産階級と南部の労働者階級に大まかに分けられていた。ここで問題となったのは、当局としては多様な裁判と訴訟を提示して民事裁判官と宗教裁判官がいる法廷を撮影すること、また、異なる社会階層の夫婦間の争いを取り上げる一種の社会学的調査を私たちに期待していたということだ。しかし、私たちは1つの法廷に焦点を当てたいと考えていた。人口1,000万人を超えるテヘランで、どこか1つの法廷から全てを描くことはできないと分かっていたが、“社会学的調査”の映画にするつもりはなかった。私たちが描きたいのは人間的な視点の物語なのだ。このプロジェクトが物語の中心となる裁判官と裁判所職員の善意に大きく依存するだろうことも分かっていた。私たちの介在を許し、プロジェクトを理解してくれる好意的な裁判所と出会うことが重要だった。
私たちの意図を当局に説明する困難はあったが、理解を得て最終的にテヘラン中心部のバザール近くにあるイラン最大のイマーム・ホメイニ司法施設に落ち着いた。ここには、広報部を含む法務省関係の事務所と一般裁判所33法廷が入っていた。家庭裁判所は2つあり、いずれも聖職者が裁判長を務めていた。午前を担当していたのがデルダー判事で、午後はマハダヴィ判事だった。この二人の判事と面会し、法廷での撮影許可を得た。
当初は両方の法廷で撮影を始めたが、そのうちデルダー判事の法廷に興味をひかれるようになった。マハダヴィ判事が扱っていたのは双方合意による離婚、つまり既に合意に達しているためそれ以上の展開がなかったのだ。審理される離婚裁判は定型的で、夫婦が結婚生活が破綻した本当の理由を語ることもなかった。一方、デルダー判事は様々な夫婦間の争いを扱っていたので、より幅広い背景と自発的な物語の発露を見ることができた。また、裁判所職員たちも魅力的な人物で、特に秘書官のマハラは同じ法廷で20年以上働くベテランだった。マハラは私たちのプロジェクトを理解してくれたとても有能な女性であり、彼女の娘パニースも素晴らしい活躍を見せてくれた。この映画にとってなくてはならない登場人物たちだ。そのおかげで、1週間も経つと私たちもすっかりこの法廷に受け入れられていた。
私たち撮影班全員が女性だったことで法廷の男女バランスが変わり、間違いなく何人かの女性に勇気を与えていたと思う。同様に、撮影班にイラン人と外国人の両者がいたことも文化的な隔たりを乗り越える一助になったと信じている。その意味では、カメラの介入も公私を結びつける役割を果たしていた。私たちは決して同意なしに撮影をすることはなかった。訴訟が持ち込まれるごとに、事前に両方の当事者と話し、私たちが何者か、私たちの映画の目的は何かを説明し、撮影に同意するかどうかを尋ねた。人々の共感を呼び、互いの文化の溝を埋めて理解を深め合うために、他国の女性たちと同じ様に自身の生き方を模索しているイランのイスラム女性たちを描きたいという私たちの思いを伝えた。同意する人もいれば、拒否する人もいた。驚くべきことではないかもしれないが、全体的に見ると、ほとんどの女性たちが私たちのプロジェクトを歓迎し、撮影を受け入れてくれた。
11月から12月にわたる4週間の撮影を終えロンドンに戻り、16時間以上撮った映像の編集を開始した。中心となる登場人物は既に構想していた。ラッシュの時点で17件の離婚裁判の映像があった。そのうち実際に使える物語を構成できたのは、最終的に映画に出て来る6件(そのうち全体を追えた裁判は4件のみ)だけとなった。どの女性の物語もとても感動的であったため、すべてを描けないことは心が張り裂けるような思いだ。この映像を振り返りながら、文化や思想の違いに焦点を当てることよりも、結婚というものがいかに難しいものであるか、また、その破綻に伴う痛みなど誰もが共感する部分に焦点を当てようと考えるようになった。さらに、テヘランの法廷の様子と共に普通の人々の生活も描きたいと考えた。予備知識として社会背景を盛り込むことは不可欠ではあるが、それを映画に詰め込みすぎないようにしたかった。どう見るべきかを視聴者に教えるのではなく、それぞれが独自の答えを導き出せるような映画にすることを望んだ。そして何よりも、女性たち自身が語り、人生の困難を乗り越えられる強い人間であることを示し、結婚生活の破綻に伴う痛みにユーモアを持って立ち向かう姿を伝えたいと思ったのだ。
ジーバ・ミル=ホセイニ女史は、ケンブリッジ大学社会人類学部および英国ロンドンのSOAS中近東研究センターの研究員である。