ジョーライン 〜SNSアイドルへの道〜
インフルエンサーの「きらびやかな世界」を夢⾒る16歳のオースティン。貧困から抜け出そうと、持ち前のルックスを武器に日々配信に励む。だが、夢⾒る場所はあまりにも遠い。「いいね」の数が全ての世界、⼤⼈たちによる搾取、少⼥たちの現実逃避の場…そんなSNSの裏側が垣間見える。
『ジョーライン〜SNSアイドルへの道〜』ストーリー
テネシー州の田舎町、16歳のオースティン・テスターはインターネット上でスターになることを夢見て、ライブ配信ビジネスの世界に入り込もうと投稿を始める。
世界中で10代の女の子たちが、まるでアイドル雑誌を読み漁るように、インターネットでオースティンのような「アイドル配信」を視聴している。オンライン配信では推しアイドルと数分、もっと見たければ課金を支払って交流することができる。その中でも、オースティンのライブ配信は一風変わっていた。パソコンのカメラを真剣に見つめ、ファンたちに向けて何時間でもポジティブなメッセージを送り続ける。彼はそのアイドルらしい振る舞いを売りにし、名声を得て、家族の生活を支えたいと考えていた。
ショッピングモールでのオフ交流会でも本格的なファンミーティングのイベントでも、推しアイドルとハグやキスをするチャンスを得るためなら女の子たちは金を惜しまない。リサ・マンデロップ監督は、この経済システムを操る10代ビジネスマンの台頭と、彼らの物語、成功と挫折に焦点を当て、あえて判断を下さない自由な視点を観客に提供している。また、名声に飢えた出世欲とは対照的に、女の子たちが率直に語る若者の痛々しい現実も捉えている。オースティンはいつも誠実に心温まるメッセージをファンに送るのだが、果たしてポジティブな言葉だけでスターになる夢を実現できるのだろうか。また、虐待を受けた過去に決別し、将来性のないテネシーの町から抜け出せる日は来るのだろうか。だが、そもそもこの新しいビジネスの生態系そのものが砂上の楼閣なのかも知れない。
マンデロップ監督のデビュー作「ジョーライン〜SNSアイドルへの道〜」は、今を生きる若者と、現代のゴールドラッシュと言えるティーンエイジャー中心のビジネス生態系との複雑な関わりをあぶりだす作品となっている。非常に魅力的で感動的ですらある若者たちの人間像を捉えながら、彼らに受け継がれた近代経済の価値観に疑問を投げかけ、新世代の刹那的なアメリカンドリームを描き出す。
マンデロップ監督は、オンライン配信を通し「永遠の親友」のように親密に交流し合う若者特有の世界に潜入し、インターネット業界の深淵を描くとともに、若者の愛されたい願望や承認欲求溢れる心の隙間に虚像を生み出す配信ビジネスの仕組みと、搾取の形態をあばき出している。だが、時が経てばこれもひとときの夢となるのだろう。
監督リサ・マンデロップが語る
夢の裏側 ―影を撮る―
リサ・マンデロップは写真家としてキャリアをスタートしている。無賃乗車で旅をするトレイン・ホッパー、女性バイカー、クラブ・キッズなど、自由を謳歌する魅力的な人々の冒険に密着し、彼らと直接交流しながら撮った写真で評価を得た。マンデロップ流の被写体へのアプローチや、居心地のいい関係性を作る才能をいかんなく発揮して撮影された初期の写真集は、風のように通り過ぎる時代と人々の表情を捉えた自信作だ。魅力的な人間を見つけ出す卓越したスカウトの目をマンデロップは持っていた。それからキャスティング・ディレクターに起用されるまでそう長くはかからなかった。
マンデロップは映画製作における方向性を定めていった経緯について次のように語った。「初めてスカウトとして関わった仕事は、大規模なリーバイスのキャンペーンでした。スカウトの仕事を始めてみると、普段から私がやっていることと同じだと気が付きました。色んな場所へ行って、興味を惹かれた人に話しかけるのです。才能あふれる人を見つけて知り合い、ブランドの広告にキャスティングしながら、映像を撮るようになりました。私の初期の作品の多くは、キャスティングスタッフの仕事と並行して製作したものです。」
「以前は、ドキュメンタリー映画とは被写体を通した偶然の出会いと必然の結末があって、そこに魔法のような何かが起こるのを待っているみたいなものだと思っていました。」しかし、広告キャンペーンの仕事で実際に人々をキャスティングするようになり、マンデロップの製作過程は大きく変化した。「変わった点は、まず映画の主体となるイメージを想像し、次に生まれる物語の可能性を考えて、主体のイメージを体現する人物を探しに出かけるというところ。映画『ジョーライン〜SNSアイドルへの道〜』の製作はそうして始まりました。すでにリサーチはできていて、撮りたい世界も登場人物のイメージも頭に浮かんでいました。まだ中心となる人物に出会う前でしたが、少しずつ撮影は始めていました。有名になることを望む少年が自分から発信を始める最初の日を撮りたい、そして彼の願望の行方を追いかけたいと思っていました。何が起こるかなんて誰にも分かりません。夢やぶれて終わるのか、それとも、大成功を納めて本当の有名人になる姿が見られるのか。それこそ未知の領域でした。このアイデアをスタッフに投げかけてみると、マネージャーの一人がたまたまネット上でオースティン・テスターを見つけてくれました。私はテネシー州行きの飛行機に飛び乗り、オースティンに会いに行きました。会ったとたん、彼こそ私たちが撮るべき人物だと確信したんです。」
ドキュメンタリー映画では事前準備なしのインタビューやこっそりと観察する撮影技法を用いることが普通だが、マンデロップは『ジョーライン』の撮影においても写真家として培ってきた審美眼を決して手放さなかった。
「画角と表現方法にはこだわりが強いんです。」マンデロップは言う。「ただシーンを撮れば満足ということではなく、映画的な美しさと撮影に関わるすべての人々とのコラボレーションによる作品づくりを心掛けています。私は物語性のあるドキュメンタリー映画を撮りたいし、常に混沌とした現実の逆風にさらされながら挑戦を続けています。あらゆることが重なり合って一つの素晴らしい結果を生むとき、本当に不思議な力を感じます。」
もちろん、マンデロップはカメラを回している最中に被写体や撮影監督に対して演出を入れる訳ではない。方向性を示すべき時に備えて、準備を怠らないのだ。「撮影監督のノア・コリアーとは、何らかの状況が生じたときにどう対応すべきか、何を撮るべきかを何度も話し合いながら進めて行きました。現実に起こる事はコントロール不可能だけれど、そこにある美しさは捉えたいと相談しました。私の撮影クルーは被写体となる人々と友情を育み、カメラが回っていてもいなくても何よりも他者の人生にちゃんと向き合うことの意義を分かっている人たちです。人と人とのつながりができるとカメラと被写体の間の壁がなくなり、仕事ではなく人間が見えてきます。心を隔てるものがない状態で撮影に臨むことが目標でした。」
マンデロップは自身の映画を「夢」という言葉で言い表す。
「私の興味はすべて夢と結びついているんです。」マンデロップは言う。「私は夢想家に惹かれます。夢の背景にある願望や感情。物語の構成要素の一つとして、撮影や編集をする上でも重視する点です。加えて、積み重なり複雑に入り組んだ感情も薄まることが無いように丁寧に描き出します。人間が自分の感情と向き合う姿に強く心引かれます。映画の技術がどれだけ進化しても、感情だけは時代を超えて変わらない人間らしさだと思います。『ジョーライン』では、アイドルへのオールアクセスパスを手に入れて親密な交流を夢見る少女たちの想いや、その裏で有名になりたい少年たちが抱く夢の暗い側面も感じて欲しいと思います。」
マンデロップが生み出す映像美はすべて目くらましの仕掛けだ。『ジョーライン〜SNSアイドルへの道〜』は、一見かわいらしく楽しげなパステル調でファンタジーの世界を描いているようだが、実は資本主義経済の末期の姿を悪夢のように映し出している。「この異常でめちゃくちゃな世界を、わざとおとぎ話のような色で塗り込めて見せる試みです。『ジョーライン』を明るく夢のように描いたのも本作品のコンセプトのひとつ。このドキュメンタリー映画で取り上げた世界は、搾取の構造を示しているのです。」と、マンデロップは言う。
息つく間もなく、マンデロップは「アイドル配信」のようなビジネスが十代の若者の生活に及ぼす影響について語った。多くの子供たちが学校へ行かなくなり、コンピューターの前に座って過ごすようになった。皮肉なことに他者との関係はさらに希薄になり、学校や町でリアルな子供同士の関係が作れなくなっている。「人々は具体的な事実を与えられるだけで満足なのかも知れませんが、私は、現在起こっていることやそこに生まれる感情を伝えたいのです。そして観客自身も意見を持って欲しいと思っています。」
映画の初期カットを数人に見せたとき、ある人に「こんなにダークな話を分かって撮っているのか?」と尋ねられて、マンデロップは笑ってしまったそうだ。
「『ジョーライン』は、今まさに十代の若者に起こっている状況を私の目を通して見たまま反映した作品です。不安と孤独感はいっそう強まり、若者たちは何とか懸命に立ち向かおうとしているのです。真っ黒に塗りつぶされた部屋の壁だけでなく、現代の反抗期の姿がスクリーンの陰に隠れています。表出されない若者の葛藤を理解するには、彼らが使うツールを覗き見るしかないのです。」とマンデロップは言及する。
「もし、彼らの行為を不快に感じたり、何が起きているのかさっぱり分からないと思うのであれば、物語の行間を読んでいないのでしょう。この作品の闇はそこにあるのです。この映画の製作を始めるときに私が最初に言った言葉は、まさに“ダークな映画になる”ですから。」
ラライブチャット時代の愛
マンデロップはこの映画をラブストーリーだと考えた。「ティーンエイジャーの恋心を描きたかった。その背景にあるテクノロジーが彼らの生き方にどのような影響を与えるのかを探求しようと思った。」
小さなオンラインコミュニティをリサーチするうちに、マンデロップは十代の少女たちが参加するコンベンションを見つけた。お金を払えば、ライブ配信アプリを介してフォーローしているお目当ての男の子と交流できる仕組みだ。ショッピングモールやレジャーパークでオフ会を開き、オンラインで出会った推しの男の子に駆け寄りハグを交わし写真を撮る少女たちを目の当たりにして、マンデロップは若者たちの「自発的で奇妙な感情的つながり」に衝撃を受けた。そんな少女たちとの出会いをもとに、短編映画『Fangirl(ファンガール)』は撮影された。オンラインで出会った推しの男の子に無条件の愛情を抱く十代の少女たち3人を追った映画だ。撮り終えた後も、マンデロップはこの若者たちの現象が頭から離れなかった。少女たちが男の子に熱狂する様子はビートルズの熱狂とよく似ている、しかし、オンラインの少年たちは芸術を売っているわけではない。彼らの商品は「感情の承認」ではないだろうか。
マンデロップは言う、「その感情の裏側に何があるのか、どうしても知りたいと思いました。ファンの少女たちがライブ配信アプリを介して男の子に傾倒することも興味深かった。なぜ彼らに熱狂するのか? どこに魅力を感じるのか? 至って普通の男の子が、どうすれば何十万人もの少女たちのアイドルになれるのか? 疑問は次々と浮かびます。最初に思いついた答えは、彼らが“愛”のようなものを与える存在であったこと。彼らは、まずオンラインでつながり、知り合って仲良くなり、普段の姿をアプリ動画で公開して共感を呼び、毎日の配信で少女たちに愛の言葉を贈る。少女たちは日々の配信を楽しみにするようになり、交流をするうちに、恋をしているような気分になるのでしょう。」
映画の撮影中に、マンデロップは少女たちに率直な質問を投げかけている。彼女たちは全く臆することなくカメラに向かい自分の内なる思いを吐露している。おそらく、オンラインでカメラ慣れしているのだろう。背景は異なるものの、どのインタビューでも似通った特徴がみられる。ほとんどの少女たちが、周りにいる同世代の男の子や大人は意地悪で乱暴だから、チャットで出会う素敵な男の子たちとこうして話をするのだと言う――たとえ実際に本人を知らなくても、チャットのために課金を続けているとしても――少女たちは、オンライン上の男の子との交流で自尊心を回復して彼らへの信望を深めていく。
注目すべきは、この少女たちがファンタジーにお金を払っている事をきちんと認識している点だ。マンデロップは当初、この現象を男性向け「カムガール」が逆転したようなオンライン配信モデルだと思っていた。「けれど、私が撮影した少女たちは必ずしも性的なものを求めているわけではありませんでした。彼女たちは愛情を求めているのです。」マンデロップは続けて、「ただし、すべての性別、セクシュアリティに当てはまるものではありません。オンライン市場では欲望に応じた売買が起こりますが、この特殊な業界に“ファンボーイ”のような商品はありません。つまり、“恋心”という扱いにくいものを逆に利用しているからだとも言えます。」と語る。
マンデロップは、映画撮影の足掛かりとして自身の子供時代の感情を掘り起こすことにした。このプロセスはある意味、ボー・バーナムが『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』を撮ったプロセスと似ている。大人の目線で単に子供時代を推測し投影したり、推測の枠内で設定したキャラクターを配置するのではなく、子供たち自身の言葉に従って物語を進め、彼らの恐れや憧れをそのまま受け止める手法だ。『ジョーライン』と『エイス・グレード』は全く違ったプロジェクトではあるが、この2作品は、おそらくエイミー・ヘッカーリングの『初体験/リッジモント・ハイ』以来の新しい映画様式の指標となるだろう。
「私はこの映画製作にあたり、まず撮影を通じて彼らと出会い、私自身が十代の気持ちに寄り添い、共通点を見い出すことから始めました。」そうして、マンデロップは最初は謎に包まれていた若者の生態をすぐに自分の内に取り込んで行った。
「彼らを撮影しているうちに、根底にある十代の原動力は今も昔も変わらないことに気が付きました。ただ現代は、そこに自己の延長としてテクノロジーが存在しています。昔からある社会との関わり方が現代ではハイパーバージョンになっている――どの時代も変わらない若者らしい感情がここで強化され、ライブ配信に乗って絶え間なく押し寄せてくるのです。」マンデロップは、オンラインアイドルとのチャットがにわか景気をもたらしている状況を「西部開拓時代」になぞらえている。しかし、誰もがゴールドラッシュで富を手に入れられるわけではない。
「利益を得るのは、ベンチャー事業を次々と渡り歩くビジネスマンだけです。フォロワーの女の子が何人いて、SNSで呼びかかれば何人集まり、どれだけお金をつぎ込むのか。ビジネスにとって重要なのは次に当たりそうな商品に鼻が利くかどうかです。たくさんの無名の男の子たちが次々と現れては、非現実的な金額が飛び交う。結局、女の子たちも男の子たちも搾取される側なのです。業界のマネージャーたちは、この市場が十代の少女たちの不安感の上に成り立っていることをよく分かっています。そして、市場が潤いSNSアイドルの名声が続く限り、業界は少年たちを使って少女たちに“自尊心の薬”となるアイドルコンテンツを売り続けるでしょう。」
『ジョーライン〜SNSアイドルへの道〜』は女の子たちにフォーカスした作品ではないが、彼女たちの声が映画の枠組みとなっていることは確かだ。「女の子たちは大きな数の力でした。一人の女の子に絞って話を進めるのは難しかった。当初は、SNSアイドルの男の子たちに対して、一人の女の子の物語を想定していましたが、不安、孤独、いじめ、自傷など問題を抱える少女たちが何十人も周りを取り囲んでいることに気が付きました。そこで、彼女たちをアンサンブルで描くことにしたのです。」マンデロップは、少女たちを“コーラス”と呼んでいる。彼女たちの目を通さなければ。『ジョーライン』は成立しなかっただろう。
「この映画では、男性が欲望の対象です。」とマンデロップは言う。「オースティン・テスターの物語でありながら、女性の視点で描いています。」少女たちは自分の不安感を業界に食い物にされても、搾取の構造に気付いていないように見えるパワー持っている。彼女たちは人工的な愛を瞬発的に欲して突っ走り、「結局、自分の一番の“推し”を決めると熱狂は冷めてしまう。」とマンデロップは言う。
オースティンとの出会い
この映画を撮り始めた時、スタッフは監督のマンデロップ自身と撮影監督のノア・コリアーの二人だけだった。15州にも及ぶ各地のオフ会に参加して何百人もの少女たちを取材しながら、ずっとこの映画の中心人物となるような男の子を探し続けていた。
「オフ会のようなショーイベントは各地で開催されていましたが、思っていた以上にアイドルの少年たちに近づくことは難しかった。」とマンデロップは言う。「私は包み隠さずこの映画の企画を説明しました。アート系のインディーズ映画であることを伝え、自分のホームページを見てもらい、映画が完成したらどこで発表する予定であるかということまで言いました。それでも、人気者になり名声を得ることだけが彼らの望みで、私たちのようなアート系への志向はなかったのです。」
各地を回りながら、マンデロップはこれまで出会った男の子たちに1つの重要な要素が欠けていることに気づき始めた。映画の中心を担う人物には、見るからに誠実な外見と、オンライン配信ビジネスでの成功を賭けてイチかバチかの大勝負に出るような思い切りが必要だった。
「実を言うと、それまで出会った男の子たちにはいまいちピンとこなかったんです。女の子たちはみんなとても素敵でしたが、コンタクトを取ったオンラインストリーマーの男の子に関してはちょっと難しいところがありました。映画の被写体は共感を覚えるような人であって欲しいので、悪意を感じる人では無理です。ずっとカメラで追いかけるのですから、最高の被写体が必要でした。」
ついにオースティンと巡り合ったとき、マンデロップはひらめきを感じたという。
「テネシー州へ行って彼の家族に会い、家を見て思いました。至る所に物語があるって。」映画の中にも出てくるように、たくさんの猫が歩きまわる小さな平屋建ての家。雑多なものに囲まれて、使い込んだ家具が置かれている部屋。十代の少年の夢を応援してくれる強い絆で結ばれた家族。成功するかどうかも分からない名声を得るチャンスにかける少年――彼は目を輝かせて言う、いつか“世界を変える”のだと。
「初めて会ったオースティンは、本当に素朴で無邪気な少年でした。その純真さは、言わばまだ現実の壁にぶつかったことの無い者のもつ美しさです。どんなに大きな夢を抱いても、困難が待ち受けていようとも、夢はきっと叶うと心から信じていました。ただし、勝算なんてありません。家族の期待を一身に背負っているところも、他の男の子とは違っていました。家族を助けたいと思い、誰かの力になりたいと願う若者でした。二度目に会ったとき、この映画の成功を予感し、彼は有名になるかも知れないと思いました。それで心を決めたのです。」
マンデロップはオースティンを「本物」と呼ぶ。女の子たちとオンラインでおしゃべりをしているときにふいに撮影をやめたとしても、その後も彼は何時間でも彼女たちと話しを続ける。マンデロップは言う「スターダムにのし上がるという“自己成就的予言”で支えられたインターネット市場で成功を目指す時、果たして彼のように人と本音で向き合うことが役に立つのでしょうか。少女たちは現実逃避をしながらティーンエイジャーの孤立と孤独を癒す逃げ道を探しています――オースティンはそんな少女たちがたまたま出会った“愛の薬”です。ただ、オースティンも同じような思いを抱えています。生まれ育った町では人との関係性をつくることができず、誰も彼の夢を認めてはくれません。いじめられっ子で、からかいの対象です。オースティンは名声以上の何かを求めています。そこが、他の少年たちとは一線を画しているところです。それでも、やはり経済市場は需要と供給の世界なのですが。」
オースティンの物語は、彼の経済的背景を抜きには語れない。けれど、マンデロップは彼の生活面に迫ることを最小限に留めた。「オースティンの家が貧しいことは聞いていませんでした。生活事情を知らないまま、彼に会いに行ったのです。ただ、きっと私も気に入る人物だとは言われていました。確かに、オースティンのような貧困層の少年が有名になりたいと一念発起する物語となれば、さらに説得力が増します。この立身出世の心意気は、他でもない彼自身が選択して生み出したものです。」
マンデロップは『ジョーライン』で新しいアメリカンドリームの姿を描きたいという構想を持っていた。そのためには少年ダビデと巨人ゴリアテの神話のように、オースティンが立ち向かう人物を登場させる必要があった。こうして、マンデロップはマイケル・ヴァイストを見つけた。「マイケルに会ったとき、彼は18歳でした。彼のほうから近づいて来て、何を撮影しているのか私に尋ねてきました。話してみると、マイケルは数百万ドル規模の会社でCEOをしていると言うのです。これまで彼を撮ったドキュメンタリーがなかったなんて不思議なくらい、驚くべき人物でした。そして、この業界はティーンエイジャーの世界なのだと理解しました。ティーンエイジャーのために、ティーンエイジャーによって運営され、その経済システム全体がティーンエイジャーに依存しているのです。実にインターネット時代の縮図であり、“面倒なことはすべてすっ飛ばして僕たちだけの生態系をつくるから、僕と組んで一儲けしよう”という考えです。彼らの方程式に大人は必要ありません。」
マイケルの“アイドル配信用のコンセプトハウス”を撮影したとき、この若い実業家のビジネス構想に心底驚いたとマンデロップは言う。「マイケルは、その邸宅にたくさんの男の子を住まわせて、24時間の配信を計画していたのです。ビデオ撮影を数人でコラボレーションしたり、共同生活を最大限に活用したコンテンツを企画していました。少年たちは、マイケルが提供するおしゃれで豪華な邸宅に自由に出入りし、だらだらと過ごしたり、ゲームで遊んだり、喧嘩したりしながら、一方でゴージャスで陽気なアイドルのライフスタイルを配信するのです。」
オースティンはというと配管の突き出た粗末な家に住み、ベッドも兄と共有だ。マンデロップはこの業界を知るにつれ、オースティンがなぜそれほどまでに名声を夢見ているのか少しずつ分かってきた。
「新しいアメリカンドリームは鼻先にぶら下がったニンジンです。もう遠い憧れではありません。アメリカ文化では名声はひとつのアイコンです。皆がインターネットにアクセスできる現代、名声は手の届きそうなところにあります。子供たちはもはや周りの環境に従順ではいられません。“嫌いな町で暮らし、学校でいじめられるくらいなら、有名人になってみせる”と思うのです。」
マンデロップは『ジョーライン』で、人間の欲望だけでなく新時代のアメリカンドリームを探求した。この映画のためにアメリカ中の小さな町を回ったが、どこへ行っても自分の配信チャンネルを登録して欲しいとか自分の番組を見て欲しいと声をかけられたという。名声を得るチャンスとは、特権者が操作する数字で勝算が決まるようなものなのか。そして、このビジネスは今後いつまで続くのだろう。
「今お話ししたように私たちが撮影したにわか景気に沸くこの経済市場は、おそらくすでに枯渇しています。ブームは去ったのだと思います。“アイドル配信”の活況は、コンセプトが思いがけず時代にうまくはまった突発的な誤作動でした。そんな新しいブームがこれからも次々と生まれるでしょう。そもそもが幻想だったのです。マイケル・ヴァイストはこのブームを“ソーシャルメディアのゴールドラッシュ”と呼んでいましたが、この映画の登場人物たちがいくら探してもゴールドはすでに持ち去られた後なのです。けれども、たとえこの業界がなくなったとしても、自分はきっと偉業を成し遂げる人間だという自尊心に支えられた少年たちの思いは、決してすぐには消えないでしょう。考えるに、この業界で人気者になるということは、多くの現実に触れずに生きるということなのです。これはきっと心に暗い影を落とします。いくらでも代わりがいて使い捨てられる存在だと気づいたとき、誰かに認められたいと思ってもそこには女の子たちが覗いている小さな窓しかありません。それでも、私たちが訪れたあらゆる町でSNSアイドルは新しいアメリカンドリームでした。彼らはただ有名になりたいだけで、特別な才能は必要ないのですから。『ジョーライン〜SNSアイドルへの道〜』はそんな時代の一瞬を捉えた映画です。」