
甲斐扶佐義
日本の写真家 甲斐扶佐義は、人生を賭した作品の多くを火事で失い、生きる気力を失くしていた時期があった。しかし、活気ある時代と彼の驚くべき経歴がにじみ出る一連の作品は今でも見ることができる。
「2015年1月、43年間経営してきた喫茶店“ほんやら洞”が、生涯の仕事である写真アーカイブもろとも焼失するという悲劇に見舞われた。1972年に反戦運動仲間の作家やミュージシャン、活動家と共に開店した大切な喫茶店も、200万枚のネガ、数千点の写真、膨大な数の写真集コレクションも灰になってしまった。
1968年に同志社大学政治学科に入学し京都に来たが、学費がすごく高かったのと量産型の教育スタイルに失望し、1学年を終える前に中退。様々なアルバイトをしながら、廃止された学生寮に住みつき、当時全国で盛り上がっていた学生運動に傾倒するようになった。その後、日本のベトナム戦争加担に反対する反戦運動団体“ベ平連”に加わり、京都から南に400キロ離れた岩国市へ行った。そこで半年間、アメリカ海兵隊駐屯地からの脱走兵を匿うための仮設住宅を建てる大工仕事に従事した。反戦運動の拠点として有名な“ホビット”という喫茶店でも働いていた。
大工としての腕はひどかったが、喫茶店というかたちのカウンターカルチャー運動に感銘を受けた。京都に戻ると、日本各地の反戦運動家の友人たち、詩人やミュージシャン、教師、アーティストらと協同して自分たちの組織を創立することに決めた。こうして1971年、同志社大学近くに木造2階建てのほんやら洞を開店した。安い食事と濃いコーヒーを提供したこの店は、すぐに地元の学生やアーティスト、活動家のたまり場になった。ジャズシンガーの浅川真紀や詩人の谷川俊太郎を呼んで、素晴らしい詩の朗読会や音楽ライブイベントを催したり、ビートジェネレーションのアレン・ギンズバーグやアメリカの作家ゲーリー・スナイダーが訪日中に立ち寄ってくれたこともあった。
その頃には1960年代の反戦運動も下火になり、反体制団体は“過激派”とレッテルを貼られるようになった。世論は若者たちに背を向けしまった。それで、私はまた写真を撮り始めた。1974年から京都の出町柳を中心に撮影し、鴨川の河原で遊ぶ子どもたち、石畳の路地でくつろぐ猫たち、そしてもちろん喫茶店を訪れる客も被写体になった。
京都の風景を撮るのが好きだった。けれど、時間の無駄使いだと言われて…喫茶店の仕事に専念するため、写真をやめると宣言したのが1977年。最後の記念に初めての写真集『京都出町』を出版して、街の石垣に写真を貼り付けた野外写真展を開催した。自分が写っている写真があれば、その人にタダであげることにした。全部で15,000点くらいの写真を展示したと思う。その後すぐに、私の写真が京都の有名な新聞の記事になり、結局やめることなく、これまでに40冊以上の写真集を出している。
1985年には“八文字屋”というバーを新しくオープンし、今でも毎日お酒を提供している。ほんやら洞も並行して経営を続けていて、最終的には2階を写真アーカイブ用の図書室にした。しかし、開店から43年後にほんやら洞は火事で全焼。
あれから5年が経ち、振り返ってみると自分がどれほど落ち込んでいたかが分かる。火事の4か月後に自転車で転び、足を怪我した。あまり眠れず、毎日酒を飲んでいたせいか足の傷から細菌感染を起こした。医者には足を切断することになるか、最悪の場合は死ぬと言われた。あんなに酒におぼれて、よく生き残れたものだ。焼け残った写真はほんの一部だけれど、幸せな時代を思い出させてくれる。」