助産師たち
仏教徒とイスラム教徒という異なるバックグラウンドを持つ2人の助産師。厳しい民族間対立をものともせず、ミャンマー西武ラカイン州の仮設診療所にて、ロヒンギャに医療サービスを提供している。混乱と暴力が激化する中、肩を並べて働く2人の苦闘、希望、夢を5年以上に渡って追った。
「この診療所は生命線、他に行ける所はない。」ミャンマー西部の田舎町で助産師を営む仏教徒のフラは言う。この地域に住むイスラム教徒―ロヒンギャ族の女性たち―が他の診療所から診察を拒否されている現状があかされる。2016年、ラカイン州で暮らすロヒンギャ族に対してミャンマー軍は残忍な民族浄化作戦を実行し、数万人が殺害され、100万人もの人々が国外へ逃れた。スノー・ニン・イ・ライン監督の観察的ドキュメンタリー『助産師たち』は、そのラカイン州にあるフラの診療所を中心に、助産師としての日々、そしてイスラム教徒の見習い助産師ニョニョの人生に迫る。
オープニングシーンはまさにこのドキュメンタリーを象徴する映像で始まる。ある妊婦が診療所に運ばれ、手当てや難関を乗り越えて元気な赤ちゃんが誕生するのだが、単に田舎町の小さな医療施設で起こるよくある光景にとどまらず、ライン監督はこのシーンをミャンマーの現代社会の縮図として捉えた。ここから『助産師たち』の物語は、自己と他者、個人と社会が織りなす糸を辿るように繊細に関係性を描き出していく。
物語を紡ぐ最も太い糸は、この5年来、国際社会の怒りをかっている非道な民族迫害の問題だ。「出て行け!出て行け!イスラムのテロリスト!ラカインから出て行け!」と声高に叫ぶ反ロヒンギャ派のデモ行進のニュース映像がたびたび引用されぞっとさせられる。このような威力行為が住民の関係性に及ぼす影響もこの映画の最も興味深い要素の1つだ。映画の中でフラの夫は言う「仏教徒の患者は3人、あとは“彼ら”だ」。世間体や生活基盤のリスクを負ってもイスラム教徒の診察を続ける医者夫婦でさえ、旧態依然とした言葉遣いや因習に囚われている。フラが弟子のニョニョに愛情を注ぐ様子はとても微笑ましいのだが、しばしば固定観念に縛られた人種差別の根深い闇が現れることがある。フラは日常的にニョニョのことを「カラー」と呼んでいる。これはロヒンギャの蔑称で「黒んぼ」という意味であり、ニョニョはこの呼び名が嫌だとカメラの前で告白している。
2人の助産師の物語はさらに展開し、彼女たちの置かれた状況を明らかにしていく。イスラム教徒の患者を受け入れるせいでフラと夫の診療所は仏教徒の住民に敬遠されていることをフラは率直に語り、同様にニョニョに仏教徒の患者を担当させないように注意していると言う。その一方、診療所が一時的に閉鎖されても、フラたちは失業した地元のロヒンギャのためにアイスキャンディーを仕入れて販売の仕事を提供するなどの支援をしている。また、ニョニョは公立の学校から追放されたロヒンギャの子どもたちを放っておけず、自分の夫を巻き込んで仕事の合間に子どもたちに勉強を教えている。チッタゴン地域のベンガル語方言に近いロヒンギャ語だけでなく、ビルマ語が使えるようになるよう熱心に子供たちを指導する様子が特に印象的だ。診療所でも常に言葉の壁が立ちはだかるが、ニョニョが両者の言葉を使えることはフラにとっても助けとなっている。
彼女たちの間にある緊張感は、必ずしも背景にある社会不和に根ざしているわけではない。フラがニョニョを叱るとき、どこにでもある師匠と弟子の関係性が垣間見える。フラはなかなか口が悪くかなり率直な性格で友人や患者に対してもぞんざいな印象があるが、そんなぶっきらぼうな物言いもフラの人間味あふれる一面だ。例えば、薬を飲まない赤ちゃんの口にスプーンでピンク色の薬を突っ込み「飲みな、ちびスケ!」と言ったり、近所の人に一芸を披露させてニョニョと笑い転げたり、ユーモラスな日常もカメラは捉えている。
『助産師たち』の全編を通して、ライン監督が描き出すラカイン州で暮らす人々の姿は共感と感動を呼ぶ。イスラム教徒と仏教徒の協力者を躍起になって迫害する非道な軍事政権のニュース映像と共に、そこで現実に生きる人々の試練に迫る映画となっている。ニョニョが自分の診療所を開こうと決意し、フラとの関係がぎこちなくなった時も、ライン監督のカメラは誠実に繊細かつ親身な視点で彼女たちに寄り添っている。『助産師たち』はフラとニョニョという2人の女性を、宗教で括るのではなく、それぞれ複雑な背景を抱えて懸命に生きる独立した人間として捉えている。社会の情勢不安の中でも、困難な状況に立ち向かう彼女たちの姿には希望が感じられる。